理由は息子なのです - その1

私は15年ほど前に日本に来ました。妻が麻布大学での獣医公衆衛生学の博士号を取得する奨学金を得るまでは、日本に来るつもりはありませんでした。

妻 は、日本に来たくありませんでした。彼女は過去に住んだことがあるイギリスへ行きたかったのです。文化も言語もイギリスの方が慣れていました。日本など考 えたこともなかったのです。ザンビアで育った私たちは、日本についての知識がほとんどなく、知っていたのは燃費の良い車、洗練されて耐久性のある家電製 品、寿司、10代の頃に見たリチャード・チェンバレン、島田陽子主演のアメリカのテレビ番組「将軍」に出てきた日本庭園など。日本刀に魅了されたことを覚えています。

日 本に来た当初は、妻が早く研究を終えてくれることを願っていました。日本はすべてにおいて非常に違っていました。すべてが狭く小さく、食べ物は臭って味が 違い、習慣も異なり、すべてが整然としてストレスの素でした。もう少しリラックスし、ゆったりとした生活を求めていました。

効率重視の環境に圧倒されました。通勤ラッシュは想像を絶していました。故郷に帰りたいと思わなくなるまで5年かかりました。遂にこう思えるようになりましたが、しかし帰国するつもりでいました。

日本に来てから4年 半、本来の専攻で職業でもある土木工学の研究に努めました。しかし、諦める時がやってきて、仕方なく英語を教え始めました。妻が研究を終えるまでの時間を 埋めるためには、英語を教える以外に選択肢がなかったからです。家の掃除や料理、植物への水やり、狭いアパートの部屋の模様替えなどに飽き飽きしていまし た。

英 語を教え始めるまでは、教師の経験はありませんでした。英語を教える事になったのは、単に英語が話せたからです。採用面接の前に膨大な量の文法の試験を受 けました。難解でしたが楽しんで受けました。そして面接がありました。日本人の取締役とアメリカ人の英語教師の面接でした。非常に長く感じた数日後、採用 の通知を受け取りました。

私の最初の仕事は5歳児の少人数クラスでした。非常に大変でした。数日のうちに「子どもの時間を浪費している気がするから仕事を辞める」と伝えたほどです。しかし会社は親切で、私にアシスタントを付けてくれ、仕事を続けるように勧めてくれました。こうやって切り抜けてきました。

数 か月、数年と過ぎるうち、子どもに教えるということが非常に楽しく感じられるようになってきました。子どもについて色々と分かってきました。子どもと関わ るうちに、「大人は子どもの能力を過小評価している」と感じるようになりました。この認識が、私の子どもへの接し方を変えました。様々な方法をトライし、 子どもに合った独自の教授方法にたどり着きました。

長男が2000年に生まれてから、幼児、児童教育の研究が新しい次元へ移りました。子どもと関わる仕事は私の天職です。

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